和光エイサーのはじまり
和光小学校の中でエイサーが踊られるようになったところから話は始まります。
ここについては、本来和光小学校の主事の平野正美先生か、和光鶴川小学校主事の園田洋一先生に話を聞くといいのですが、1991年に和光小学校ではじめて「6年生有志によるエイサー」がいちょう祭りで踊られました。
このころの和光小学校は今以上に「いちょう祭り」の前など職員室がまるで芸能学校の練習場と化していました。
かたや太鼓をたたく人、歌を歌っている人、踊りの指導を分析している人、踊りの道具を作っている人と、今思い出しても楽しい場面でした。
まだ三学級時代で、先生の数も多く、子どもの踊りを何とかいい物にしたいということで、教員仲間での伝え合いが活発でした。
そんな中、東京エイサーシンカーの金城さんの指導を受け「エイサー」をやってみようということになったのです。
金城さんは、中野から自転車を飛ばして和光小に教えにきてくれました。
踊ったのは「七月エイサー」です。
リンケンバンドの曲にあわせて踊るので、和光バンドも作られました。みんな三線を購入して、園田先生の指導のもとギター経験のある人たちが集まって練習していました。「唐船ドーイ」などの早引きの曲は大変でした。
いちょう祭りの最初のデビューのとき、東京エイサーシンカーの人たちがチョンダラーをやってくれ、盛り上がりました。
しかし、この時代はまだ親の中には「六年生は御神楽八番を踊って和光を卒業するのだ」という雰囲気が色濃く残っていました。
六年生の学年ではじめてエイサーを踊ったのは、1992年のことです。
この年の六年生は、ビデオ「小さな語り部」を作った年です。手作りの太鼓はベニヤ張りでしたから、音がコーンコーンとなっていたのが今でも耳に残ります。それでもまだ、エイサーは全学の父母・子どもから十分に支持されていませんでした。
エイサーが文句なく支持されるようになったのは、1997年まで持ち越されます。
子どものチョンダラーの最初は1995年の中本君でした。また、この年には、今沖縄で活躍している伊藤君たちがカンカラ三線を作って演奏するということもはじまりました。
1997年の取り組みは、その夏に沖縄の園田に行ったメンバーが、クラスごとにエイサーシンカーをつくり「道ジュネ」のように動きながら踊り、最後に「エイサー対決」をやっていくということに作り変えたものでした。
120人で踊るエイサーより、自分達の踊りを意識できる学級単位にしたことで踊りが大きく変化しました。
このときから、和光小学校のエイサーが全面的に園田青年会の踊りに変わっていったのです。また、この年に和光鶴川小学校は開校初めての6年生が誕生し、全面的に東京エイサーシンカーの指導を受けエイサーを作っていったのです。
こうしたことから同じ和光小学校でもエイサーが違ったものになっているのです。
チョンダラー
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